金氏徹平の世界観に一旦引きずり込まれると、全てのものの境界線がぼやけていく。
全ての尺度が、溶けていくように元あった形から歪んでいく。
そんな感覚をなぞりながら、今回の展覧会タイトルが「金氏徹平のグッドベンチレーション-360°を超えて-」に決定した経緯を書いていこうと思う。
その前に、私が初めて金氏徹平を知ったのは、チェルフィッチュ×金氏徹平の消しゴムシリーズである。
美術における静的な吸引力と演劇における動的な波及力の間にある何か、
ホワイトキューブとブラックボックスの間にあるグレーゾーンのような何か、
今日のアートシーンにおける展示と鑑賞に針のように突き刺さるであろう新たな何か、
そんなことについて頭を巡らせていた中たどり着いたのが、ポスト・パフォーマンスを実践するチェルフィッチュであり、岡田利規による映像演劇であり、チェルフィッチュと金氏徹平による消しゴムシリーズであった。
消しゴムシリーズは京都国際舞台芸術祭2019の一環としてロームシアター京都で上演された『消しゴム山』に始まり、金沢21世紀美術館で開催された『消しゴム森』、そして現在もYouTubeで配信されている『消しゴム畑』からなる。そしていずれもモノとヒトが大きなテーマとなっている。
「『消しゴム森』でトライすること」として金氏徹平はこのような言葉を残している。
人間とモノと空間と時間との新しい関係性。生まれていない/存在していない人間が持っている思考。たくさんの時間とたくさんの人間の思惑によって出来上がった制度や空間をモノが占拠することによって、既存の境界線とは全く別のでたらめな境界線を引き台無しにする。タイムマシンの材料をホームセンターで見つける。など、ある意味で想像することも不可能かもしれないことを、演劇(あるいはチェルフィッチュ)もしくは劇場、彫刻(あるいは金氏)もしくは美術館の制度や空間や手法やコンセプトを駆使して実現しようというのが今回の僕にとっては試みです。
劇場版の『消しゴム山』は、存在しないもしくはかつて存在した山を遠くから眺めるようなものであるとすれば、美術館版の『消しゴム森』は自らその中に踏み入れるものになると思います。森の中は危険がいっぱい。
(金沢21世紀美術館 チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム森』
会場配布パンフレット、p. 8.)
劇場という空間で向かい合うモノとヒト、美術館という空間で見つめ合うモノとヒト、物理的な時間や距離を超えた空間でつながり合うモノとヒト。それぞれの場でモノとヒトの関係性はどのように変化するのか。「モノ」と「ヒト」は本当に物と人なのか。
森の中は怖かった。
ミラーも、木材も、色水も、ピンポン球も、ヘルメットも、プラスティック容器も、名前は知らないけど確かに馴染みある何かも…見慣れているはずの物が、どこか知らないモノへ。公園で見るサルスベリの木は愛おしいのに、森の奥に生い茂る木々はどこか現実味を欠くあの感覚。森の茂みに思わず足元をすくわれそうになる。
(金沢21世紀美術館 チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム森』 会場写真)
すくわれそうな足元に気をつけながら、茂みを進んだ先は映像演劇の展示室である。
『消しゴム森』の真骨頂はここだったように思う。
(金沢21世紀美術館 チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム森』
展示室12「モノたちへの映像演劇」会場写真)
展示室の名前にもあるように、ここでは「モノたちへの映像演劇」が行われている。
規制線のすぐ内には生身のプロジェクター、その中には元ある用途を剥奪され、あたかも意思があるかのような出立で床に「立つ」モノ。そしてその視線の先にはモニターに映されたヒト。生身ではないヒト。立体的な形を持たない平面的なヒト。私という目の前に立つ生身の「ヒト」が交流することはできないヒト。
ここでは私と演者は一方通行で、オブジェ(金氏徹平による彫刻)と演者いわば『消しゴム森』に棲息するモノとヒトは対面通行である。
モニター内に映されたヒトがモノに語りかける話。
それはこう始まる。
ちょっと難しい話かもしれないですけど、理解してもらえたら嬉しいんですけど。それは何かというと、時間の話で。時間というのがあったんですよ。でも、そもそも時間がどういうものかが分かんない、ですよね。分かりますか?分かんないですよね。そうですよね。
たちまち自分がヒトなのかモノなのか区別がつかなくなる。
ヒトがモノに何らかの概念を教授している状態の中で、私はその教授される側のモノである。強制的に向かいのヒトに何らかの交流を持つ術を絶たれた状態なのである。ヒトが言うことに私が反論しようが、泣こうが喚こうが、そのヒトはただただ一身にそのヒトがモノに教授すべきことを言い放つ。
一方通行である。
だから私が映像の中にいる演者と私自身が同じ地平線上にいないことを違和感に感じるべきではない。なぜなら、演者はヒトで、私はヒトが語る言葉を受動的に聞くことしかできないモノだから。ヒトとモノだから。違って当たり前なのである。
私はヒトではないのかもしれない。そんな感覚から始まり、目の前の演者らの動きを前にただ虎視淡々と見つめ、何らの行動も起こすことも声を発することもできない状態で、ああ、私はこの隣に無造作におかれたオブジェと同じだ。
私はモノなのかもしれない。
そんな感覚に陥る。
ヒトがモノに語りかけている内容が理解できない、ヒトの私。モノと同じ位置で、ヒトの話に聞き入る、ヒトの私。そして、ヒトとして話してはいるものの、ヒトとしての質感を持たないモニター内のヒト。
自らが置かれた状態に無気力になりながら、語りかけはいつのまにかこう終わる。
でもこれは、もう人間にはどうしようもない限界なんで、しょうがないです。なのでとりあえず、時間に帰属していないという状態があり得るっていうことが人間には想像できないんだなということだけ、分かってもらえればそれでいいかなと思います。
はて、モノとは。ヒトとは。そして私とは。
不思議なのは、ヒトかモノか区別がつかない自分の意識を引きずりながら、森のなかをさまよっていると、だんだんと自分がヒトである意識が鮮明に呼び起こされていることである。
ヒトとモノとの境界線が無くなっていくのを明確に感じながら、同時に明確に両者の境界線が確かに存在することを思い知らされる。
(金沢21世紀美術館 チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム森』
展示室9「映像演劇Ⅰ」会場写真)
ヒトとモノが同じようにライトを浴びている状況。質感を持たないヒトが質感を持つヒトとモノに語りかけている状況。そしてそれを撮影しているヒトかモノかわからない私。
ヒトとしての私とモノとしての私が絶え間なく揺れ動く、その果てにヒトでもありモノでもある私。ヒトでもなくモノでもない私。ヒトとモノの境界線が溶けて歪んだ空間を味わった。不思議と時間の流れも感じぬままに。森の中で風の揺らぎにただただ身を任せているように、ぼやけた光景をただただ見ていた。
(金沢21世紀美術館 チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム森』 会場写真)
前置きがだいぶ長くなってしまったが、今回の展覧会でも風に揺れ動かされ、歪んだ時空を体感することになるであろう。
そして必ず誰もの元持っていた何かを容赦無くひっくり返すであろう。
「金氏徹平のグッドベンチレーション-360°を超えて-」
金氏徹平の個展の今までのタイトルを見ると、
「金氏徹平:溶け出す都市、空白の森」(横浜美術館、2009)
「Towering Something」(ユーレンス現代美術センター、北京、2013)
「金氏徹平のメルカトル・メンブレン」(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、香川、2016)
とどこか一貫した世界観を感じられない。
それもそのはず、金氏徹平は自身の展覧会タイトルを決める際に「人任せ」にすることがあるのだそう。
「金氏徹平のメルカトル・メンブレン」では小説家の長嶋有にタイトルを一任。二人のタイトルを決定するまでの経緯を記した対談にこんな言葉があった。
彫刻と絵画の違いもありますが、作者は一人で作っているのか、ということがあります。そもそも展覧会では多数の方々が関わるので、どうしても「ひとり」ではなくなります。でも、個展は、それを「ひとり」と言い切らないといけません。そこにいつも違和感がありました。今回、長嶋さんに個展のタイトルをお願いした根底にも、その違和感をなくしたいという思いがあって。
(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館 「金氏徹平のメルカトル・メンブレン」
公式カタログ内対談掲載冊子より)
今回の個展タイトルもゼミ内で候補を出し、それを全員で話し合いながら、最終的に「金氏徹平のグッドベンチレーション-360°を超えて-」に決定した。
ベンチレーション。風通し、通気、通風、換気の意味である。
今年の展覧会はコロナ禍ということもあり、全展示室を開放、全空間の十分な換気を確保しての開催となる。そこで、それをコロナ禍によるマイナスとしてではなく、敢えてタイトルに取り込むことで、この状況もうまく利用して取り込んじゃえという意気である。
換気されている状態の展示室、外と繋がっている空間でこそ、金氏徹平によるあらゆる既存概念の歪みを存分に感じて欲しい。
パラレルワールドがつながってしまったような時空間に身を置くであろうことに限りないワクワクを感じて欲しい。
そして「-360°を超えて-」。
360°という既存の尺度を用いた副題である。
360°が361°、362°に超えていくことももちろんあるが、超える以上に360°という尺度そのものを超えていくのが金氏徹平の世界観である。
どう換気され、空気がどう揺れ動くのか。
どう既存の尺度を超えていくのか。
それは言葉での説明に頷くより、展示空間に実際に身を置いて、感じていただきたい。
最後に、ゼミ生が各々に感じ取り、表現しようとした金氏徹平の世界観を、一つの痕跡として、残しておきたい。
以下、ボツになったタイトル候補です。
「金氏徹平個展 in and out」
「金氏徹平展 360°<(360度を超えて)」
「金氏徹平展 360°< -360度を超えて-」
「金氏徹平 360°<超えて」
「金氏徹平-つながる-」
「金氏徹平、」
「金氏徹平 change perspective」
「金氏徹平 visible and invisible」
「金氏徹平 trans-」
「Move with the wind ~今年は金氏徹平!~」
「金氏徹平とともに with Kaneuji」
「金氏徹平個展 from … から」
「金氏徹平個展:between」
「金氏徹平個展:跡、後」
「金氏徹平 空のつみき」
「金氏徹平がカタ、コト、と」
「金氏徹平’s Rhythmic」
「金氏徹平 air the room」
「金氏徹平 このころなかのなかで」
「金氏徹平を覗く」
「金氏徹平 ーモノとの距離」
「か ne う JI 徹 🅿︎ゑ イ 展」
「か ね う じ て っ ぺ い 展」
コロナによって、目まぐるしく「今まで」が変わりつつある今日ですが、家村ゼミ展2020「金氏徹平のグッドベンチレーション-360°を超えて-」にご来場いただく皆様が、新たな何かに出会えますように。
皆様のご来場を心よりお待ちしております。
2020年8月 展覧会設計ゼミ4年・ゼミ長 黄 夢圓
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